余命はあくまでもその時の予測 -母の膵臓がん末期の看護を通じて学んだこと ストーリー1

本日は母の膵臓がん末期を通じて学んだこと、そして母が過ごした緩和ケア科の素晴らしさについて書いていきます。

わたくしチオリーヌのブログをこれまで読んできてくれた人たちにしてみると「え!? どした!? 大丈夫かい!?」というくらい重たいテーマではあるものの、私も母が膵臓がんの末期であることがわかったときに、いろんなブログを読んで救われたことや、たくさんの人が膵臓がん末期や緩和ケアについて調べていることが分かり、今回の経験を通してお役に立てることがあればと思いました。

2018年11月、母が膵臓がん末期であることを知らされる 余命は6ヶ月

2018年11月はじめ、母が膵臓がん末期であることをメールで母本人から伝えられました。このころ、腹部や背中に耐え難い痛みを感じるようになり、病院にいって精密検査を受けたところ、すでに肝臓まで転移しており、手術は不可能。化学治療によって、延命治療を行っていくことになりそうだと。

この頃の母はすごく気丈で、ロンドンに暮らす私には、「大丈夫大丈夫! 気にしないで!」と話していて、母と一緒に暮らす父と弟には「気にしないで今までと変わらない生活を続けてください」と話していました。

このとき、医師からは「おそらく余命は6ヶ月から1年ほどではないか」と言われたそうです。

パスポートが手元になく、日本に帰れないわたし

母からまさかのニュースを聞かされた当時、私はイギリスの永住権の申請をしていたため、手元にパスポートがなく、日本に帰ることが出来ないという最悪な状況にいました。

イギリスの永住権の申請方法についてはここでは詳しく書きませんが、私の選んだ申請方法では、パスポートやビザが手元に戻ってくるまでに最長6ヶ月かかるというもの……。2018年10月はじめに申請をしたばかりだったので、このままではあと5ヶ月は日本に帰ることが出来ないと、私は言うまでもなく発狂しました。まあでもありがたいことに、この問題は解決! それはまた別の記事で書きたいと思います。

12月はじめに、無事にパスポートを取り戻した私は、2019年1月1日に日本に到着する便の航空券を取り、はしゃいでいました。

抗がん剤治療の副作用により急激に状態が悪化

膵臓がんであることが発覚したときには、まだ普通の生活が出来た母でしたが、すぐに状況は変わりました。第1回目の抗がん剤治療を受けた後から状況が悪化。抗がん剤治療の代表的な副作用はもちろん、投与される痛み止めが体に合わず、普通の生活が出来ないどころか、抗がん剤治療が受けられないほどまで体力が落ちてしまいました。

そこで抗がん剤治療を一旦とめ、痛みを止めることに専念することに。食事がまったくとれなくなってしまっていたので、栄養剤の点滴、痛み止めの点滴、さらには吐き気止めの点滴……。状況は良くならず、挙げ句の果てには、「血液中に血栓が出来始めていて、いつ脳梗塞が起きてもおかしくない状態です」と医師団に言われたのです。

父から告げられた母の余命はあと1、2ヶ月

2019年1月1日に日本に到着する便を取っていた私でしたが、これには一応理由がありました。というのも、当初の治療計画では、いろいろな検査もあるので、12月中はばたばたしているし、お正月くらいに帰ってきてもらったほうが、いろいろ終わっていてゆっくりすごせると両親に言われたからです。

ただ12月中旬にはかなり、状況が変わってしまい、12月17日頃父から電話で「いつ亡くなってもおかしくない状況だから、すぐに日本に帰ってきてほしい」と言われ、12月21日に日本へ到着する便で帰国することになりました。

帰国してすぐに、母が入院する病院にお見舞いに行くと、2週間ほどほとんど食べることが出来ていないと聞いていた母が喜んで迎えてくれました。痩せてしまってはいたけれど、ノリはいつもどおり! ただ母はニオイに異常に敏感になっているようで、私のつけていたヘアオイルのニオイで気分が悪くなってしまい吐いてしまうという事態が起きてしまいました……。

11月初めに発覚した母の膵臓がん。最初は6か月と言われていた余命も、12月終わりにはもう、おそやく1、2か月だろうと言われるように。

そして医師団からの勧め、母本人の希望、そして家族の同意によって、がん治療の入院病棟から、痛みをケアすることのスペシャリストとして知られる緩和ケア科がある病院へと転院することになりました。それが2018年12月25日のことでした。









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